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安心と安全について

ITコーディネータの仕事の根幹は、IT活用企業とITベンダーの両方に、安心・安全を提供することにある。しかし、安心や安全とはなにかについてじっくり考えることは少ないであろう。そこで以下に、安心と安全についての考察を示す。

 

■1、Abstract(要約)

安心・安全を定義する為には、アリストテレス哲学以来の課題であり現代資本主義に通じる目的因の理解が重要である。
西洋的な合理性と効率重視の資本主義社会の中では、安心・安全は際限のない欲望の膨張として現れることもある。

一方、東洋では仏教の諦観に基づく思想も強く残り、日本には武家社会由来の御恩と奉公という概念が、会社組織の中で息づいている。

こうした西欧型現代資本主義へのアンチテーゼの最も典型的な例としてブータンのGNHが注目されている。本論では、上記思想を概観しながら、現代日本的における安心・安全の根底要素を探求し、最後に「私個人」の安心・安全についての見解を記すこととする。

 

■2、安心・安全を形作るもの

本稿では「あらゆる観念が我々に表象されるのは、その目的が意識に現れるから」という現象学的なスタンスに立ち、先ずは安心ではない状態、安全ではない状態から見た概念の存在性を検討する事としたい。

つまり、「安心・安全」と云う概念は、通常は意識に上ることは無いものである。林檎を見て、その皮を剥いて食べようと思わない限りは、果物ナイフの有無が意識に上らないのと同じように、使おうと思ったら使えないような時や、必要なのに見あたらない場合に初めて意識されるものである(ハイデガー『有と時』)。従って「安心・安全」と云う観念に於いても同様に、「安心・安全」の道具的存在性を検討が必要不可欠である。
■3、アリストテレスの目的因と安心・安全
道具的存在性に関する議論の発端は、アリストテレスの系譜で語られる「目的因」の考え方によるところが大きい。例えば「とある森」の「とある木」はいずれ切り倒されて鉛筆になる運命(目的)を持っており「その隣の木」は仏像になる目的を持っていたと考えるのが目的因の考え方である。

アリストテレスはこのように、物事の原理・原因を、形相因(Material cause)、質量因(Formal cause)、作用因(Efficient cause)、目的因(Final cause)の四つから説明しようとした(アリストテレス『自然学』第2巻第3章)のであるが、このような合目的論において、「安心・安全」という概念はどのように位置付けるべきであろうか。

先ず判りやすい例で考察を試みる。例えば「ファイアウォール」という事物の存在は、通信ネットワークの「安心・安全」の為(目的)であり、会社に入館する際の社員証や入館申請書の存在も「安心・安全」の為(目的)である。しかし、「安心・安全」という事物そのものの目的というのは考えにくい。これは個別の「ファイアウォール」を想起することが容易であるのに対し、「安心・安全」は個別の「安心・安全」を想起することが難しい抽象概念であるため、具体的な形が想起できない。更に「安心・安全」を引き起こす原因の説明も難しい。即ち「安心・安全」は様々な事物そのものではなく、むしろ事物の原因や原理として扱われるものである。

このように「安心・安全」とは、様々な物事や行為における原因として扱われることになる。この場合四つの原因形態の中で最も良く合致するのは形相因としてであろう。よりアリストテレス的な表現に従えば「安心・安全」は、自然界の事物、個物ではなく理性的存在者の価値に関する概念である。また具体的な質量(ヒューレー)を表現するものではなく、むしろ形相(エイドス)として、様々な事物に内在する概念と考える。(アリストテレス『形而上学』第5巻)

即ち、「安心・安全」は、事物の中に形相として内在すると考えるのが相応しい。

例えば、「社内のコンピュータ」という現実態(エネルゲイア)には、コンピュータという物理的な物質に、「安心・安全」という形相(エイドス)が内在しており、具体的なコンピュータと分離することはできない。同様に「安心・安全」をコンピュータから分離した途端に「安心・安全」は観念的、抽象的なもの、即ちその実在が机上のもの、空想上のものとなってしまう。つまり目的因から「安心・安全」を考える場合、単純に「安心・安全」を目的として存在する事物を想起するだけではなく、様々な事物に内在する形相(エイドス)としての「安心・安全」を見る必要がある。

先の道具的存在性の議論において、安心ではない状態、安全ではない状態の認識が重要であると述べたが、安心ではない状態、安全ではない状態は、「安心・安全」自体に志向しても意識できないものであり、事物の内在する形相(エイドス)としての「安心・安全」こそが、それを志向する「私」によって道具的存在性を認識する事となる。問題は事物そのものではなく、それを志向する者の眼前にある事物に対し、「安心・安全」という道具的存在性を認識するかどうかである。
■4、契約主義
事物における「安心・安全」の道具的存在性を意識させる方法として、契約というものがある。古来東西を問わず複数関係者間の責任所在を明確にする方法論として、契約書が存在してきたが、特に西洋資本主義社会の会社組織においては、契約主義に基づく考え方を根底に置いて発達してきた。それに伴って責任を明確化する為の諸制度も発達してきた。

こうした契約主義の概念は、宗教上のバックボーンに大きな影響を受けている。すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラム教等には「神との間で契約を行う」という概念があり、全てはそれを基軸として展開されている。

近代社会の成立、社会契約論の発展と共に、貨幣経済体制が複雑化し、いわゆる雇用関係が明確になってきた。組織間の契約、組織内の契約もこの中で共々発展してきた。

重要なことは、契約の本質が、責任を伴う義務の発生を目的とした2者間以上の合意にあり、裏返していえば、契約によって義務範囲の限定がなされることにある。想定される様々なリスクや事象に対する行動計画や責任範囲の変更等を契約によって明示化することが契約の本質である。

契約の道具的存在性という観点から考える場合、ヨーロッパでは約因が必要とされる。契約には必ず何かの具体的な動きがあり、実態が存在する。認識や概念の共有・交換だけでは契約とならず、契約実態を表現する具体的な何かが必要となる。これは、契約に対する現実態(エネルゲイア)を必要とする根本的な思考に起因するものと考えることができる。

私達が契約行為を行う場合、義務範囲の限定に対して意識を払うか払わないかで、契約の本質が理解できているかいないかが決まると言ってよい。

フッサールが『厳密な学としての哲学』で「生きるということはすべて態度決定であり、態度決定はすべて当為のもとに、すなわち絶対的妥当を要求する諸規範にしたがった妥当か非妥当かに関する判決のもとにある」と語るように、会社において指示命令系統の中での判断に限らず、生きるということは須く態度決定=判断である。契約とは、誰が判断を下すのか、社会の中でオートマチックに決まることなのか、自らの自律的判断で決めることなのか、等を明確に炙り出し分離する制度であり道具なのである。

ただしこのような契約主義には、言葉の持つ曖昧性、多義性が最後まで横たわる。様々な現代哲学が数学的、言語学的なアプローチ(たとえばクワインの『経験主義の二つのドグマ』における分析命題と綜合命題の分離不可能性に関する考察、クリプキの固定指示子に関する考察、ヴィトゲンシュタインの語りえないものに関する考察)の中で、言葉の持つ限界を審らかにしている。すなわち契約主義も言語のもつ限界により、ある程度の「ゆらぎ」「あそび」が存在し、その中で折り合いを付けないといけないのである。

またこれら生身の身体が持つ外部応答機能としての言語は、ソシュールの言うところのシーニュ(signe:記号)の束であると言える。「安心・安全」というシニフィアン(signifiant:指し示すもの)は、個々人の頭中に思い描く「安心・安全」のシニフィエ(signifi?:想念・所記)という「中身」を仮にすべて加算したとしても、完全にシニフィアンの指し示すものそのものへ還元することはできない。「安心・安全」のシニフィエが個々人バラバラなのに対し、「安心・安全」のシニフィアンは表現として固定的である。言語という応答機能そのものにはそうした根源的なシーニュの構造があり、言語を用いる限りこの構造的な問題からは回避できない。この点からも契約主義の厳密さに対する限界が考察できる。
■5、吉本隆明のアジア的時間
これまで契約主義をベースにした「安心・安全」の表現が一定の限界にあり、言語が持つ構造上、それが不可避であることを見てきた。それでは「安心・安全」に関する契約上の責任や承認、義務履行に対する曖昧さに対し、どのように対処すべきなのか。

これを解く鍵の一つとして、ヘーゲルの提起する非西洋的な思考、つまり「アジア的」な国家成立の歴史原理を下敷きにして、吉本隆明が「アジア的時間」という考え方を(牽強付会な面はあるが)発展させて論じている。

ヘーゲルは法哲学や国家成立の過程を検討する中で、アジア的な国家存立は「自然を原理としている」という見解に至った。対して西洋の(キリスト的)原理は、ロゴス(言葉)であり、ロゴスによる「自由」の獲得が基本原理であると考えた。ロゴスの行き着くところは契約主義であり、合理主義である。

このような潮流の中にあっては時間感覚は合理主義と契約主義の行き着くところ、マルクス主義的な(一見合理性を担保するかに見えた)無駄の多い計画経済であったり、人間相互に分単位、秒単位の行動が求められてしまい、結果として自由の獲得からは程遠くストレスの多い資本主義社会であったりしてしまう。

一方、我々は古来から(狭い範囲ではあるが)世界との付き合いの中から、中国大陸から農耕文化と共に拝借したのが自然を原理とするアジア的原理であり、アジア的時間である。ここで時間はロゴスではなく自然に合せて流れるので、自然が表現しない分単位、秒単位の行動原理は求めない。

吉本隆明は、世の中には秒単位の時間概念が合わず、アジア的時間感覚でしか生きられない人もいる。たとえば日本の時間に追われた高度な管理社会にはなじまないが、インドネシアやタイやフィリピンのおおらかな(あるいはルーズな)時間感覚の中で生きてゆける人がいるのだろうと語る。(吉本隆明『BRUTUS特別編集 合本・今日の糸井重里』)

自然を原理とする根底には人間が機械的理性者ではなく、生身の動物的身体を持った生ける人間であるという抗いようのない事実がある。安心・安全のロゴス的な限界は、言葉の限界の自覚をもって迎えられるべきであり、他方アジア的時間の中で「ゆらぎ」「あそび」を設計すべきなのである。

その根底に存立するのは自然であり、人間の本性に従った佇まいであり、あらゆる行動の試金石である。

 

■6、ブータン的思想

アドルフ・ヒトラーの言葉に「欲望は膨張する」というものがある(アドルフ・ヒトラー『我が闘争』)。ロゴスを原理とした機械的合理性の追求は際限のない欲望の拡張を伴う。戦後日本が復興する際のメルクマールとして国民総生産の追及が行われ、国民生活は確かに豊かになった。しかしながら、膨張する欲望を無限に追及すること自体が目的化しはじめると、プレイダー・ウィリー症候群や過食症の人々のように決して満腹感を得られない状態に陥ってしまう。

ブータンはその地政学的な問題から経済発展よりも中長期的な満足、安心感、地域コミュニティの維持に政策基盤を置いている。GNP(国民総生産)に対する1976 年にブータンの第4代ワンチュック国王がGross National Happiness(GNH)というキーワードを用いたのはその象徴である。これは際限のない物質面での欲望の拡張をコントロールするという精神に根差しているもので仏教に根差した価値観である。

ワンチュック王妃は「GNH の立脚点は、人間は、物質的な富だけでは幸福になれず、充足感も満足感も抱けない、そして経済的発展および近代化は人々の生活の質および伝統的価値を犠牲にするものであってはならない、という信念です。」と述べている(青木、石戸、川嶋『千葉大学人文社会科学研究』20号2010年「豊かさの経済を求めて:ブータン王国に思うこと : In Search of Abundance : The Case of Bhutan’s Gross National Happiness 」)が、これは仏教の四諦(したい)の道である。

仏陀は人間が根源的に抱える苦(四苦、苦集滅道という四つの真理、四諦)への対処方法として、他者や外部の神ではなく、自らの心のあり方に焦点を当て、自身の心が正面からその苦を受け止める方法を説く。どうしようもないことに対し、自らの心が苦しみを生み出すのであるから、その心の有りようを変えようということである。(中村元訳 『ブッダのことば スッタニパータ』)

苦を知り、苦の原因を減らし、そしてそのように実践して実現すべきであると説いている。ブータンの試みは節約や勤勉、諦観、特に四諦感を近代的な方式でGNHとして見える化し、国家運営に活かそうとする試みに他ならない。

また、吉田兼好の徒然草には、金持ちが説く金儲け指南の話が載っている。約言すると、欲望を抑制し質素倹約し金を貯めるのだ、という事。兼好はこれを批判し、金は使う為にあるのであって、将来がわからない時の為に蓄財をするのは訳が分からないと説く。(吉田兼好『徒然草』)間違った節約や勤勉は欲望を内在しており、欲望を根底においた諸活動は、それが表面的には節約や勤勉であっても、苦しみを減らすものではないことを示している。

「安心・安全」に対しても、仏教的な視点、ブータン的な組織運営の視点から見て、効率的、契約主義的な観点からだけではなく、行為者が根源的に持ち合わせざるを得ない苦しみに焦点を当ててそれをコントロールするべきであると思われる。

■7、日本の根底にある「安心・安全」
先に示したように実業界においては、西洋的契約主義が浸透し、法整備も明治以来そのように行われてきている。しかしながら日本においては暗黙の契約精神の形として、鎌倉時代から連綿と続く武士道の主従精神、即ち御恩と奉公が根底に存在する。それは古い話ではなく、様々な業界で昭和初期すなわち20世紀まで残っていた。看護師のお礼奉公や医者の研修医制度等をはじめ、その精神は御恩と奉公であり、松下幸之助が松下電器産業発展の元で示した道徳規範等もその典型例であろう。21世紀の現代においては、制度的には解消しつつあるものの業界暗黙の慣行として残っている場合があると思われる。

ここで重要なのは、「安心・安全」は物事が変わらない事だと錯覚してしまうことである。実は私達の近代生活は将来に対する様々な約束、特に状況が変化しないというだろうという何の根拠もない約束によって支えられている。この根拠の無い約束が金融システムで連鎖的世界的に破裂した例がリーマンショックであり、複雑な契約システムの元、誰も責任を取らない大量の借金を社会が許す事態になっていた。長年の原子力発電政策においても、一旦決定された方向性を変更するには大変な労力が必要であり、そこに物事が変わらない事は良いことだという錯覚と真実を見る目を塞いでしまう怠慢とが重なると、人々が描いていた「安心・安全」はいつのまにか単なる脆い幻想になってしまう。

現在の日本に於ける「安心・安全」は、第二次世界大戦後の世界秩序の中で築き上げてきたものであるが、昨今の年金問題や領土問題に見るように、人間の寿命を超える長い問題については、こうした秩序を維持することは英知を集めても(衆愚の知恵を集めるからともいえるが)極めて困難だということがわかる。

ブータン的な幸福追求は、人間の自然状態における幸福追求の形であり、金融システムの発達と官僚主導の法整備の中で歪んでしまった日本の幸福追求の姿は、「安心・安全」をも脅かしつつあると言える。

大橋巨泉は2012年10月20日号の週刊現代のコラムで「戦争とは爺さんが始めて、オッサンが命令し、若者たちが死んでゆくもの」という表現を使っている。国家が人間の生身の体を超えて欲望を吸い込んで膨張すると、人間の生存期間を超えて(つまり自然的でなく人工的な形で)人間に対して欲望を突きつけるようになる。そこに幸福は無く、責任を取るべき人も居らず、ただただ人を不幸にするシステムだけが残ってしまうこととなる。

今後社会経済の発展を見据えつつ、サスティナブルな経済環境をいかに維持するのか、この矛盾した命題を抱えているのが現代日本の有り方である。
■8、ITCであるわたしが提供する「安心・安全」

企業人としての「安心・安全」の仕組みは、契約社会の文脈で処理可能なロジカルかつ極めて単純な仕組みである。即ち責任範囲の確認とその責任に対する承認状態の確認、つまりはスコープの明文化と約因の設定であり、言語として曖昧な領域に立ち入らないよう、具体的な約因を提示すれば済む話である。

個人としての「安心・安全」の仕組みは、やや複雑であり、幸福追求の一環としての「安心・安全」である。そこでは、「安心・安全」の道具的存在性を、定立すべき根底を明確にする必要があり、アジア的、特に仏教的な世界観で考えるならば、自らの心が生み出す苦しみを直視することから始めなければならない。

家族を守り、生活を守り、金銭、家財を守り、家を守り、自らの健康を守り、様々な事物を守る事に追われる人生が良いのかどうかということに対しての態度を決めなければならない。

イマニエル・カントは福と徳について「福」の概念と「徳」の概念を厳密に分離して使用した。徳を持つ人格者が即ち幸福であるか、幸福な人は必ず徳が在るのか。悪人であっても幸福はあるのか。当時のキリスト教的世界観の元、カントが出した答えは、最高善に至る為には、徳が在ることが第一であり、その上で福が一致することが最高善であるというものだ。徳の無い人の幸福は単なる快楽、悦楽であり、最高善には達し得ないという考えである。

キリスト教的原理の中にあっても人間の限界を探求したカントにあっては人間の自然的ありかたや目的に関して、謙虚な姿勢をとる。『道徳形而上学の基礎づけ』の中で彼は「すべての人間がもっている自然的目的は自分自身の幸福である」と述べている。

即ち徳を積み、謙虚に自分に向き合うことは、仏教的、アジア的、キリスト教的、西洋的という視座を超えて、普遍的な人間原則として必要だということなのだろう。

TVのアニメも現代的な語り口でこう語る。「悔しいけどね。正しいことだけ積み上げてけば、ハッピーエンドが手に入るってわけじゃない。むしろみんながみんな、自分の正しさを信じ込んで意固地になるほどに、幸せって遠ざかってくもんだよ」(魔法少女まどか☆マギカ 第6話)

故に、安心や安全は、ITコーディネータ自らの心の定立無くしては何も見えてこない概念である。
(以上)

ITコーディネータ/太田垣博嗣

 

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