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民話「鶴女房」とマーケティング

■はじめに

 私は、あるカルチャースクールの「朗読の会」に参加している。民話,童話,詩などを朗読する会であり、年に数回発表会を行っている。次回の発表会では、私は民話「鶴女房」を朗読することになっているのだが、会を主催されている先生(某大学文学部教授)と、ちょっとした論争をした。その内容が面白いので、ここでご紹介してみたいと思う。

■民話「鶴女房」

 まず、ストーリーを紹介する。

         *

 ある雪深い山里の若者が、畑仕事の途中に翼を矢で射抜かれた鶴を見つけ、かわいそうに思って矢を抜いてやった。それからしばらくたち、冬の始めに一人の美しい娘が、若者の家へやってきて、「女房にしてくれ」と言う。娘と若者は夫婦になり、しばらく暮らすが、冬のさなかになりだんだん蓄えが乏しくなる。女房は、「それなら私が機を織りましょう。できた布を売ってお金にしてください」と言い、機屋にこもる。「決して中を覗かないで」

 やがて、一反の世にも美しい布が織りあがる。布を町の市場で売ってその金でしばらく暮らすが、また蓄えが乏しくなる。「それなら、また私が機を織りましょう。でも、これが最後ですよ」織りあがった布を売った帰りに、若者は知り合いの商人と出会う。「そんな不思議な布なら、都のお大尽(金持ち)へ持っていけば100倍の値で売れますよ。私が口利き(仲介役)を務めます。儲けは山分けにしましょう」

 若者は大喜びで家に帰り、もう一枚布を織るように女房に言う。「しかたがありません。織りましょう。でも本当にこれが最後ですよ」女房は布を織り始めるが、若者はつい機屋の中を覗いてしまう。するとそこには、一羽の鶴が自分の羽根を引き抜いて機を織っている姿があった。「とうとう覗いてしまったのですね。私はあなたに命を助けられた鶴です。もうお別れしなければなりません。お元気で」織りあがった布を残して、鶴は空の彼方へと飛んでいった。

         *

 どなたでも聞いたことがあるであろう。有名な民話である。木下順二の名作戯曲「夕鶴」の原作であることでも知られている。

 会の主催者である先生はこう言われた。この民話のテーマは人間の金銭に対する欲望の深さ、醜さ、愚かさ、である。若者は分不相応なお金への執着など起こさなければよかったのだ。人間は清貧が一番。生きていけるだけのお金があればそれで良い。

 しかしながら、企業人でありITコーディネータである私としては、その考え方には同調し難い。お金は社会の血液であり、円滑に循環させることが社会の活力を増すことにつながる。守銭奴になってはいけないが、お金を上手に使うことができれば、多くの人を幸せに導くことができるのだ。……というような論を述べた。

 そしてまた、この物語は「マーケティング」という面から見るとさまざまな問題点がある。いろいろな角度から分析できる、非常に奥の深い物語である。

■布の価格はいくらか

 まず、マーケティングという面から考えるために、この不思議な布の価格はいくらくらいなのか、を考察してみよう。

 雪国であるので冬は長いはず。4ヶ月続くと考えよう。冬の始めに結婚し、蓄えが乏しくなり、布を売ってしばらくは楽に暮らせた。物語の描写からは、この「しばらく」は2ヶ月くらいではないかと思われる。夫婦二人が、もともとの蓄えにプラス臨時収入があって、2ヶ月楽に暮らせたとすると、その臨時収入は現代の貨幣価値ではさていくらか。1ヶ月に10万から20万くらいか。平均して15万として、2ヶ月で30万円くらいか? まあそんなところであろう。

 知り合いの商人が、都(当然、今の京都のことであろう)のお大尽に持っていけば100倍の値になるという。ということは、3000万円で売れるということだ。

 たかが布地一反が3000万円! この商人の言葉をどこまで信用するかが問題だが、仮に正しいとすれば、この布は市場でそれだけの価値に評価される商品だ、ということになる。

■仲介料は適切か

 商人は、「私が仲介します。儲けは山分けです」と言っている。この場合、仲介とは商人が都で売ってくる、という意味であろう。つまり、中間マージンとして50%取る、と言っているのである。さて、高いか安いか。

 50%は高い。ボリ過ぎだ。10%くらいが妥当だ、と思ったらおそらく間違いであろう。私は、50%はとてつもなく安い、この商人はとんでもなく欲がない男だ、と思う。

 何故ならば、この若者が直接都のお大尽と交渉して、布を3000万円で売ることができるか、という問題があるからである。

 若者が都のお大尽(貴族か? 大名か? 大商人か?)の元へ直接行き、「この布を3000万円で買ってください」と行ったならばどうなるか。まず面会さえもしてくれまいが、仮に会えたとしても、山里から来た貧しい身なりのまったく初対面の若者の言葉を聞き、信じてくれるだろうか。おそらく追い出されるだけだろう。

 では、都の市場に露店を出し「さあ買った買った3000万円の布地だよ」と言えば、誰か買うだろうか。絶対に誰も買わないだろう。

 では、呉服商の元へ持っていけばどうなるだろう。呉服商ならば見る目があるから、布の価値を認めてくれるだろう。ただし3000万円では買わない。買い叩くだろうが。

 しかしその場合、こう言うだろう。

「あなたはこの布を、どこでどうやって手に入れたのですか?」

 山里の貧しい若者が、3000万円の価値がある品物を持っていることを、どう説明すればよいのだろうか。「私の女房が織ったんです」で通用するのだろうか。下手をすると盗品と疑われ、役人に捕まるかもしれない。

 すなわち、若者には「信用」というものが無い。そのために、この布は若者の手にある間は決して3000万円の価値を生まないのである。

 一方、知り合いの商人には信用がある(らしい)。本人の言葉を信ずればだが、都のお大尽に彼が口を利けば、3000万円で売ることができる。おそらくそれまでにも、同じレベルの高額の商品を何度も扱った実績がある、ということなのだろう。そうしてこの商人が長年かけてお大尽との間に構築した「信用・信頼」があってこそ、高額の価格が生まれるのである。

 従って、中間マージンは50%どころか、90%でも少しも高くはない。

■商人の行動の疑問

 さて、そう考えるならば、商人の発言・行動は疑問である。「都へ持っていけば100倍で売れる」などと言っているが、私ならばこう言う。

「そうですか。そんな美しい布ですか。30万円で売りましたか。それなら、また布が織れたら私は100万円で買いましょう」

 で、若者から100万円で布を買ったら、都へ持っていって3000万円で売る。運送費に100万円かかったとしても、2800万円の利益が上がって大儲けである。

「そんな。若者を騙すなんて」などと考えてはいけない。騙してなどはいない。若者には30万円でしか布を売る力がないのだから、それを100万円で買ってあげるなど大親切と言うべきなのだ。

 また、もうひとつの疑問点が浮かぶ。私ならばこうする。

「そうですか。どこのどなたに売られましたか」

 と若者に質問し、ただちに一枚目と二枚目の購入者の元に行って、それぞれ100万円で購入するべきだ。30万円で買った品物が100万円で売れるというのだから、購入者が一般人であれば(織物を扱う商人などでなければ)売ってくれるであろう。──ただし、一枚目は時間が経っているので、既に着物に仕立てられてしまっているかもしれないが。──すると布は2枚(若者から買うことができれば3枚)になり、さらに儲ける機会が増加する。

 こういう「当然の行動」を取らない商人は、あまり利口で優秀な商人とは言えない。すると「100倍で売れる」という商人の判断も怪しいことになり、論の前提が崩れてしまう。……あれれ?

■鶴女房はどうするべきだったのか

 一方の、若者の行動、鶴女房の行動にも問題がある。

 鶴女房は、一冬の短い期間に布を二枚織り、さらにもう一枚織れと若者に強要されてそれに従った。なお、一枚織るごとにげっそりやつれるという。

 若者は儲けたい。鶴女房は布を織りたくない。さあ、どうすればよいのか。

 ここで考えなければならないのは、何故たかが布一反に3000万円もの価格がつくのか、ということである。美しいとか、手触りが良いとか、丈夫だとか、温かいとか(羽毛でできているのだから)、という品質の良さのみによって、3000万円もの価格がつくとはとても思えない。

 これは、この布はあまりにも飛びぬけて美しいために、もはや一種の芸術作品として評価されていると考えるべきだろう。そしてもうひとつ、「希少価値」があるからこそ高額なのだ、ということである。(「鶴女房」の中にはこの点に関する説明は無いが、「夕鶴」の中には「『鶴の千羽織』といって、天竺(インド)まで行かなければ見られない珍しい布」という説明がある)

 短い期間に布を二枚織って市場に出し、さらにもう一枚織って売るということは、はたして利益を上げるためには合理的な行為なのだろうか。

 間違った行為である。既に売った二枚がその後どうなったかは不明だが、もし目のある商人が別にいて都に運ばれたとすれば、すでに都での希少価値は下がり3000万円の市場価格にはならないだろう。そこへさらに一枚売るならば、市場価格はさらに下がる。

 知り合いの商人は、「希少価値を下げないため」にも、売られた二枚の布を急いで買い集めるべきなのである。

 つまり、鶴女房はこう言えば良かったのだ。

「あなたは儲けたいのね。だったら、今すぐ織って売ってしまっては損。少し待ちましょう。そして、マーケットリサーチをしながら慎重に売りましょう」

 半年か1年くらいもたてば体力も回復するし、それから織ってあげればよいではないか。または、その間に子供ができれば「妊娠中は織れない」とか、産まれたら「子育てが忙しくて織れない」とか、先延ばし先延ばしにしていれば、そのうち夫である若者も忘れてしまうのではないだろうか。

 ただ、鶴には子宮が無いので人間の子供が生めるかどうか疑問だが。(卵で産むとか。←秋吉久美子か!)

■さらに、商人はどう売るべきだったのか

 さて、幸いにも雪深い山里であり、まだ冬なのだから、布はまだ町の中にある可能性は高い。知り合いの商人が、首尾よく3枚の布を手に入れたとしよう。どのような販売戦略でこの布を売るべきだろうか。

 一種の芸術作品として評価される布なのであるから、その美しさ、素晴らしさを大いに都の中で宣伝し、ニーズを高めてから売るべきであろう。

 まず、布のままでは宣伝がしにくい。商人は、先行投資として超一流の仕立て職人を雇い、華美な着物に仕立てるべきだ。

 現代ならば、ここでファッションショーということになるだが、昔の話(江戸時代くらいか?)なのだから、そういうわけにも行かない。商人の言う「都のお大尽」がどういう人物かわからないが、京都のことなのだから、そのお大尽なりの伝手をたどれば、しかるべき身分のお公家さんあたりに紹介してもらうこともできるだろう。

 ここで、その公家の奥さん(ないしお嬢さん)に、この着物を献上してしまうのである。タダであげてしまうのだ。

 3000万円プラスアルファの価格を持つ商品を、無料であげてしまうなんて! と驚いてはいけない。公家の奥方ともなれば、宮中に出入りもできるであろうし、歌会始めとかのイベントにも出席するであろう。その他、花見とか寺参りとか、上流階級の人々が集う場には頻繁に行くことだろう。

 するとどうなるか。この奥方が歩くだけで満場の注目を浴び、ライバルの奥方や姫君が、「なんて美しいんでしょう」「くやしい! 私もあの着物が欲しい!」となることは確実である。

 こうして、奥方の着物が都中で話題になり、「あの着物は何だ。どんな布でできているんだ。誰が仕立てたんだ」「だれから買ったんだ。どうすれば手に入るんだ」「欲しい。次の宮中の宴までには何としても欲しい」となってニーズが最高に高まった時に2枚目の布を仕立てて売れば、1億円でも売れるであろう。

 さらに、都の情報が全国に流れ、「あの×小路○麿様の奥様が…」「あの宮家の姫君が…」「世にも美しい着物だそうじゃ」「欲しい。何としでても欲しい」となれば、徳川将軍家にでも加賀百万石の前田家にでも、3枚目の布を仕立てれば3億円くらいで売れるであろう。

 そううまくいくものか、と言われるかも知れないが、これは飽くまでこの布に本当に3000万円の価格が付くならば、という前提での話だ。一種の芸術品として評価され、希少価値の高いものであるのならば、付加価値を付けて効果的な宣伝を行えば、10倍程度の価格を生み出すことは別に不思議ではないのである。

 ■さらなる戦略

 3枚目の着物を売ってしまえば、もう同じ着物は作れない。不思議な布はもう無いのだから。

 しかし、本当に無いのか? 「夕鶴」によれば、「天竺(インド)まで行かなければ見られない珍しい布」とある。インドまで行けば布はあるのだ。ということは、インドから輸入する、という方法が考えられる。江戸時代であれば、鎖国をしているわけだからインドまで買い付けに行く、というわけには行かないが、中国経由で輸入することならば不可能ではないだろう。

 しかしここでは、不思議な美しい布を今後も入手可能か? という問題は、不確定要素が多すぎる為、これ以上は論じない。

 さて、3枚の布を着物に仕立てて売った商人は、その後どうするべきなのであろうか。もうその商売はおしまいだろうか。

 そうではない。着物を売った(または献上した)3人を、仮に上級公家の奥方A,皇族の姫君B,大大名の奥方C,とする。するとこの商人には、「あの超有名なA様,B姫,Cの方,の世にも美しい着物を、仕立て売った呉服商」という素晴らしいネームバリューが生まれているではないか。これをビジネスに利用しない手はない。

 まず、呉服商として商号を「鶴屋」としよう。商標は、JALのマークのような丸鶴紋にするものとする。ここでは、(鶴)と表すことにする。

 商人は、不思議な布には(なにしろ一種の魔法によって生まれた布だから)及ばないにしろ、可能な限りそれに近い光沢や美しさを持った上質の布地を研究開発するべきである。鶴の羽から布を作るのは人間には無理だろうから、おそらくは絹織物になるのではないだろうか。同時に、布を織る職人、それも最高級に腕の良い職人を養成するべきである。

 京で絹織物と言えば、やはり「西陣織」である。この西陣織から職人をヘッドハンティングしてくるのが良いだろう。

 このプロジェクトは、一枚目の着物を公家に献上した時から、既に将来に向けて動き出しているべきである。先行投資としてかなりのお金をつぎ込まなければいけないだろう。都のお大尽と信頼関係を結んでいるのならば、出資者になってもらい、配当金を支払うのも良い。信用を得ているお大尽が複数いるのならば、複数人から出資してもらって株式会社形式にするのも良いだろう。

 3枚目の布から仕立てた着物が売れた後、噂が広まるにつれて日本全国のお金持ちの女性が、「私も欲しい、私も欲しい」と思い始めるはずである。

 そこへ、鶴屋ブランドの高級婦人着物、とし(鶴)マークを入れて、「貴き方々がお召しになるものと同じものではありませんが、ご要望にお応えしお値打ち価格で」として売り出せば、飛ぶように売れるはずだ。高級婦人着物というものは、だいたい40万~50万円くらいの価格であるらしいので、鶴屋ブランドの着物は500万円でも売れるに違いない。

 宣伝もさらに工夫する必要がある。現代のようにテレビコマーシャルというものはない。江戸時代であるならば、歌舞伎役者に舞台で着てもらう、という手段がある。これは現実にも行われていたことで、例えば着物の色の「路孝茶」というのは、宝暦・明和の女形役者瀬川路孝が舞台で着て大流行となった着物の色である。市松模様なども同様だ。

 さらに、芝居の台詞の中に「祝言(結婚式)には、やはり鶴屋の白無垢じゃのう」とか、「桜の花びらが白妙の着物によう映えておる。やはり花見は鶴屋の着物じゃ」などというコピーをさりげなく入れてもらうのも良い。これも現実に行われていたことである。

 ただ、当時は役者は非常に卑しい身分と考えられていたので、「皇族の女性が着るものと同じブランドの着物を、役者風情が…」ということになるかもしれない。まあ、そのあたりは企業イメージにかかわる問題なので、慎重に判断しなければならないだろう。

■さらに世界を目指し…

 こうして、鶴屋ブランドの着物が売れに売れ、商人が順調に大店の主、となったとする。京を本店としてさらに大坂,名古屋,江戸にも支店を出し、めでたく日本一の大呉服商になったとする。

 どうしたって次は世界に進出、とこう行きたいではないか。

 江戸時代、日本は中国,オランダとのみ、長崎を通じて細々と貿易を行っていた。鶴屋が長崎にも支店を出し、出島のオランダ商人たちを相手に着物を売るようになったらどうなるだろうか。

 ヨーロッパの女性に鶴屋の着物が評価されるかどうか分からないが、仮に「オウ、ジパングノドレス、キモノ!」などと大評判になったとしよう。20世紀初頭に起きたジャポネスクブームが、鶴屋の着物をきっかけに200年近く早く起きたかもしれない。すると、オランダのみならずイギリス,フランス,ロシア,アメリカなど多くの国々が貿易を求めて日本に押し掛けるに違いない。徳川幕府もその圧力に押され、また貿易によって大きな利益が上がることも考慮し、幕末を待たずして開国を迎えることになっただろう。

 日本は、1868年にアメリカの提督ペリーによって、かなり強引な開国をさせられ、不平等な条約を結ばされた。この不幸は、大老・井伊直弼のビジョンの無さや弱腰のせいばかりとも言い切れない。

 やはり、軍事力の差が根本の理由だろう。ヨーロッパでは既に蒸気船や爆裂砲弾が発明されていたことと、アヘン戦争が起きて清国が大敗した事実があったことが大きな原因と言える。徳川幕府は、黒船の軍事力に怯えていたのだ。爆裂砲弾以前の砲弾であれば、大砲といっても鉄の玉が飛んでくるだけであり、江戸の町に放っても一発につき家が一軒潰れるだけで大したことにはならない。巨大な黒船とは言っても、一隻に乗れるのはせいぜい数百人程度なのだから、上陸して戦えば幕府軍に負けるだろう。そして、もし帆船であれば補給力もたかが知れている。

 ということは、動力や兵器の発達以前に開国していれば、軍事力に怯えることなく、もっと穏やかで平等な開国ができたはずなのだ。

 すると、西郷隆盛も坂本竜馬も出番がなくなる。戦争をしなくともごく自然に外国との文化の交流や貿易が始まり、日本からも海外に進出する企業が出てきたはずである。鶴屋はヨーロッパ各国に支社を作り、世界企業となり、(鶴)マークは世界のブランドになったであろう。明治時代のような強力な富国強兵策を取らなくともよくなり、経済も軍事もゆるやかに成長していくことができたはずなのだ。すると、昭和初期における軍部の暴走も起きなかったはずで、太平洋戦争だって起きなかったに違いない。

 ……と、これ以上は妄想の羽根を広げすぎるというお叱りがきそうなので、キイを打つ手を止めることにしよう。

■おわりに

 木下順二の「夕鶴」は「鶴女房」を原作としているが、「夕鶴」のヒロイン“つう”は、鶴女房と大きく異なる点がある。

 鶴女房は、家にお金が足りなくなった→それなら機を織りましょう→布ができました。売ってお金にしてください。──つまり、鶴女房は人間社会の経済というものを理解しているのだ。

 ところがつうは、美しい布を見て夫が喜んでくれるのが嬉しい。→だから機を織る→夫はそのたびに「おかね」っていうものと取り替えてくる。→だから不満。「おかね」ってなに?「かう」ってなに? ──つまり、つうは貨幣というものを知らず、経済というものをまったく理解していないのだ。

 経済を理解しようとさえしない“つう”が、人間の女房になるのは無理がある。離婚という結果を迎えたのは、やむを得ないことだったのであろう。 

 清貧は良い。お金を知り尽くした人が、あえて金銭から離れて清く貧しく生きるならば、それは尊敬できる。

 しかしお金を、心を汚す穢いもののように考えるのは間違っている。ましてや、経済とは何かを知りもしない人が、清貧を訴えたところで私には美しいとは思われない。

                                        杉山 雅俊

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